2016/08/22

終活

最近、持ち物を減らしている。


以前から折にふれて衣料品を中心に減らしていたけど、今年の夏は押入れ1間分くらいの量を処分した。
「なくなったらまた同じか似たものを買いたい」と思うもの以外は全て手放してみる。
微妙なものを完全になくし、今必要なものを数点補充。
きちんとした食事会に対応できるものを含めても、手元にある衣料品は少なくなったと思う。
でも、全く困っていない。
流行は巡ってくる。でも、60年代当時のアイテムは今の60年代風ファッションとは違う。
そして、巡ってきた時に自分がそれを身につけられる身体的精神的状況かどうかは危うい。


本や写真、CDの8~9割も処分。
元々が卒業アルバムは捨てていたくらい、思い出関連に執着はない。
小さいころの写真で、親がまとめてくれているアルバムは、親の葬式で出番がありそうなので保持。
自分で撮るようになったもののほとんどは廃棄。
他はブログを始める前の旅行写真を記憶用に少しと、要所要所の友達との集合写真、未来ある子どもたちの写真を残したくらい。

本は現状たびたび開くもの以外は、それを持っているのがなんとなく素敵だからという対外アピールか、若かりし日の自分の残像でしかないと思い至った。
密林や電子書籍、iTunesがあるのだから、必要になった時に再度手に入れればいい。
積み上げられた本が持ち主の知性や品格を表す時代ではないのではないかと。


他、謎のコードとか鍵とか、いつの何か不明な説明書とか…。


衣料品や本などは、捨てなくても売ったり寄付したりして、世の中で回してもらえるのがありがたい。
おかげで気楽に手放せる。

使わないのに、手に入れた時の価値を頼りに残していることは馬鹿馬鹿しい。
なのに、自分は持っているモノに義理立てし、「着てあげないのは申し訳ない」と着心地が悪かったり、落ち着かなかったりするものを身につけて鬱々とその日を過ごしたりしていた。
無意味極まりない。


ミニマリストになりたいわけではないし、ものを買うのが好きでもある。
執着を減らしたいだけ。
飽きっぽいから、一生モノというのは自分にはないんだなと。
自分が持っているものを全て把握でき、掃除が楽な範囲で、買ったり手放したりを繰り返しつつ、余生を過ごせればと思うだけだ。